2004年07月03日
プロフィール(社会人編)
プロフィール(学生編)に続いて社会人編。長く書きすぎ?誰が興味あんねん!?(2010年7月28日修正)
1988年4月、S銀行に入社。
システム部にプログラマー専門職として配属される。この銀行は父の勤務先で、半分以上コネで入ったようなもの。なので就活も特段せず、面接だけで入社させてもらった。
しかし「アイツはコネだから…」「障害者だから…」と言われるのは絶対イヤだった。男性は夜の9時10時は当たり前という職場。私もそうなったが苦ではなかった。休日に隠れて出社したこともある。男なのでやるのは当たり前と思っていたし、早く戦力になりたかった。この職が向いていたこともあっただろう。
勤務地は大阪府豊中市。通勤は自動車通勤。朝は2時間、夜は1時間半かかったが、電車通勤(1時間半)よりは楽だった。飲み会がある日は当然電車。急な飲み会には車を会社に置いて参加した。
よく働いたし、よく遊んだ時代だった。気の合う先輩たちとは毎週必ず飲んでいたし、女性陣を交えた飲み会もよく企画した。夜10時に退社して車でゴハンを食べに行って(←酒は飲まずに)午前様に帰宅、なんてこともよくした。その割に恋は実らなかったなあ〜。
【出向】
入社8年目に所属部署廃止に伴い子会社に出向。希望していたパソコンの業務用ソフトを開発する職に変わった。勤務地は大阪市内。自動車通勤したが、足腰が弱るのを防ぐため電車通勤も織り交ぜた。勤務時間も楽になった。
業務毎のベテラン女性(お局様)相手の仕事。クセのある人もいたが仕事のできる人ばかりで、とても勉強になり「やりがい」があった。おばちゃんたち(失礼!)と喋るのは面白かったし、頼りにもしてもらえた。仕事で意見が合わず、気まずくなったこともあったなあ。
【父の入院】
時期は出向と前後するが、銀行定年後に子会社に再就職していた父が足の腫れをきっかけに入院。他症状も併発し数か月経過。母・私・妹が交代で付き添い。私や妹は定期的に有給を取って泊まり込んだ。やがて脳の血管が破れ、意識がなくなった。そして私が出向してしばらくして、他界。
家族のために働き、やっとこれからゆっくりできるなあというときに。娘の花嫁姿も、孫の顔も見せてやれなかった。無念だった。心の底から変わってやりたいと思った。
【退職】
障害者だが至極健康な私がある日、勤務中に気分が悪くなり病院に行き検査。原因は不明で体はすぐ戻ったが、健康のことや将来のことを考えるようになった。諸々の外部要因もあり、この出向先も先々は不安定。銀行から肩を叩かれる心配はなかったが、職種での妥協は十分考えられた。つまり「先が見えてきた」
世間では「SOHO」「在宅勤務」という言葉が聞かれ始めていた頃。「パソコンの仕事が出来て障害者の私が在宅勤務しなくて、誰がする?」一度きりの人生、私は安定と自由を引き換えた。
2001年6月、ソフトウエア会社Tに入社。
退職するかすまいか思案中の時期に、インターネットの障害者と仕事のマッチングサイト(現在は廃止)に自分の情報と在宅希望を登録しておいた。退職が決まった後(まだ退職前)大阪府にある小規模のソフトウエア会社Tからメールが届き、面接。銀行システム部での経験を評価していただき、入社が決まった。退職して半年はゆっくりしたいという望みは叶わないことになったが、ラッキーだった。
職種はパソコンソフトのプログラマー。勤務形態は在宅。週1度車で出社して仕事を受け取り、家で作業をして、次回出社時に納品。メールでのやりとりも適宜あり、私のほぼ理想的な形だった。技術的には高度になったが、修得しながらこなすのはとても勉強になった。ネット関連のプログラミングはここで覚えた。
しかし「在宅勤務」という形態は会社も私も初めてで、手探り状態だった。仕事の受け渡し、指示や質問が半端になりがち。私も週1出勤という立場でどこまで首を突っ込んでいいかわからず、また「できるならサボりたい」という不埒な考えも抑え込むことができず。
結局4年8か月在籍し、会社の方針と自分の待遇に疑問を感じて退職。と書くと会社ばかりが悪いようだが、私も非を感じている。もっと厚かましく意見を出していれば事態は変わっていただろう。因みに私の退職後しばらくして、その会社はなくなったようだ。
2006年2月から、個人でインターネット関連業務に就く。
2005年1月からネット収入を模索するためメルマガ発行を開始していた。アフィリエイトや株・FXも始め、そちらに集中したかったというのも退職理由の1つだった。
ネットのおかげで友人・知り合いが全国にでき、それがきっかけで初の海外旅行にも行くことができた(台湾旅行!障害者のほとんど一人旅参照)。結婚相手も・・・と言いたいところだが、それはまだ実現していない。
そして、現在に至る。
こうして振り返ると、決して順風満帆ではなかったが、前向きに生きて来れていると思う。分岐点でどちらを選ぶかの正解なんてわからないものだが、周りの人に助けられたし、後悔はしていない。
長文にお付き合いいただき、誠にありがとうございました。
ご感想をお寄せいただければ、ここまで書いた甲斐があったというものです。
こちらまでぜひ! → okiraku_shuアットnifty.ne.jp (「アット」を半角の「@」に変えてお送りください)
システム部にプログラマー専門職として配属される。この銀行は父の勤務先で、半分以上コネで入ったようなもの。なので就活も特段せず、面接だけで入社させてもらった。
しかし「アイツはコネだから…」「障害者だから…」と言われるのは絶対イヤだった。男性は夜の9時10時は当たり前という職場。私もそうなったが苦ではなかった。休日に隠れて出社したこともある。男なのでやるのは当たり前と思っていたし、早く戦力になりたかった。この職が向いていたこともあっただろう。
勤務地は大阪府豊中市。通勤は自動車通勤。朝は2時間、夜は1時間半かかったが、電車通勤(1時間半)よりは楽だった。飲み会がある日は当然電車。急な飲み会には車を会社に置いて参加した。
よく働いたし、よく遊んだ時代だった。気の合う先輩たちとは毎週必ず飲んでいたし、女性陣を交えた飲み会もよく企画した。夜10時に退社して車でゴハンを食べに行って(←酒は飲まずに)午前様に帰宅、なんてこともよくした。その割に恋は実らなかったなあ〜。
【出向】
入社8年目に所属部署廃止に伴い子会社に出向。希望していたパソコンの業務用ソフトを開発する職に変わった。勤務地は大阪市内。自動車通勤したが、足腰が弱るのを防ぐため電車通勤も織り交ぜた。勤務時間も楽になった。
業務毎のベテラン女性(お局様)相手の仕事。クセのある人もいたが仕事のできる人ばかりで、とても勉強になり「やりがい」があった。おばちゃんたち(失礼!)と喋るのは面白かったし、頼りにもしてもらえた。仕事で意見が合わず、気まずくなったこともあったなあ。
【父の入院】
時期は出向と前後するが、銀行定年後に子会社に再就職していた父が足の腫れをきっかけに入院。他症状も併発し数か月経過。母・私・妹が交代で付き添い。私や妹は定期的に有給を取って泊まり込んだ。やがて脳の血管が破れ、意識がなくなった。そして私が出向してしばらくして、他界。
家族のために働き、やっとこれからゆっくりできるなあというときに。娘の花嫁姿も、孫の顔も見せてやれなかった。無念だった。心の底から変わってやりたいと思った。
【退職】
障害者だが至極健康な私がある日、勤務中に気分が悪くなり病院に行き検査。原因は不明で体はすぐ戻ったが、健康のことや将来のことを考えるようになった。諸々の外部要因もあり、この出向先も先々は不安定。銀行から肩を叩かれる心配はなかったが、職種での妥協は十分考えられた。つまり「先が見えてきた」
世間では「SOHO」「在宅勤務」という言葉が聞かれ始めていた頃。「パソコンの仕事が出来て障害者の私が在宅勤務しなくて、誰がする?」一度きりの人生、私は安定と自由を引き換えた。
2001年6月、ソフトウエア会社Tに入社。
退職するかすまいか思案中の時期に、インターネットの障害者と仕事のマッチングサイト(現在は廃止)に自分の情報と在宅希望を登録しておいた。退職が決まった後(まだ退職前)大阪府にある小規模のソフトウエア会社Tからメールが届き、面接。銀行システム部での経験を評価していただき、入社が決まった。退職して半年はゆっくりしたいという望みは叶わないことになったが、ラッキーだった。
職種はパソコンソフトのプログラマー。勤務形態は在宅。週1度車で出社して仕事を受け取り、家で作業をして、次回出社時に納品。メールでのやりとりも適宜あり、私のほぼ理想的な形だった。技術的には高度になったが、修得しながらこなすのはとても勉強になった。ネット関連のプログラミングはここで覚えた。
しかし「在宅勤務」という形態は会社も私も初めてで、手探り状態だった。仕事の受け渡し、指示や質問が半端になりがち。私も週1出勤という立場でどこまで首を突っ込んでいいかわからず、また「できるならサボりたい」という不埒な考えも抑え込むことができず。
結局4年8か月在籍し、会社の方針と自分の待遇に疑問を感じて退職。と書くと会社ばかりが悪いようだが、私も非を感じている。もっと厚かましく意見を出していれば事態は変わっていただろう。因みに私の退職後しばらくして、その会社はなくなったようだ。
2006年2月から、個人でインターネット関連業務に就く。
2005年1月からネット収入を模索するためメルマガ発行を開始していた。アフィリエイトや株・FXも始め、そちらに集中したかったというのも退職理由の1つだった。
ネットのおかげで友人・知り合いが全国にでき、それがきっかけで初の海外旅行にも行くことができた(台湾旅行!障害者のほとんど一人旅参照)。結婚相手も・・・と言いたいところだが、それはまだ実現していない。
そして、現在に至る。
こうして振り返ると、決して順風満帆ではなかったが、前向きに生きて来れていると思う。分岐点でどちらを選ぶかの正解なんてわからないものだが、周りの人に助けられたし、後悔はしていない。
長文にお付き合いいただき、誠にありがとうございました。
ご感想をお寄せいただければ、ここまで書いた甲斐があったというものです。
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