2004年07月02日

プロフィール(学生編)

プロフィールを真面目に書き直しました。(2010年7月22日修正)
今までふざけてたわけではないですが、、ちゃんと書きます。

パソコンに向かって

1963年4月、大阪府茨木市で生まれる。ほどなく兵庫県尼崎市武庫之荘へ
1965年、兵庫県西宮市へ引っ越す。父の会社の家族寮
この頃に、検診に行った先で「小児まひでは?」と指摘され、検査したところ「脳性まひ」であると判明。出産後すぐそうだったらしい。

1969年4月、西宮市内の私立幼稚園に入学。キリスト教系のところ
公立幼稚園には入れてもらえなかった。
その私立幼稚園は隣駅にあり、父が出勤の途中で母と私の3人で自転車で乗り、毎日送ってくれていた。(今思うと3人乗りなんて、あぶなっ!)
母は園内には付き添わず、その時間は近くのスーパーで買い物したり、自動車教習所に通ったり。
帰りは母と電車で帰った。
秋に母が免許を取り、それからは車で送り迎え。

幼稚園では些細なことでよく泣いてた覚えがある。先生を困らせたなあ〜。家が遠いので特別仲のいい友だちもできず。園内では誰かと遊んでたと思うけど。

1970年4月、西宮市立段上小学校入学。
小学校は公立。1年生のときは母がずっと付き添い(合間に帰ったりしていたが)
自動車通学していたと思う。友だちもできて家で遊んだりしていた。いじめっ子もいたけど。

2年生からは母は送り迎えと給食のときだけに。
やがて給食時も来なくなった。
下校もときどき歩いて帰るようになった。

仲のいい友だちもいたが、からかわれたりもした。
「こんなんやったら養護学校に変わりたい〜!」とか言ってピーピー泣いたもんだ。
そこは頑として譲らなかった両親のおかげで、今の私がある。

そして妹が生まれる。

1974年6月、奈良県奈良市立T小学校へ転校
5年生のときに、一軒家に引っ越したので転校。
人間関係を初めから築いていかないといけない「転校」は私にとってはヘビーだった。
が、担任の先生のおかげもあり、クラスメートのおかげもあり、友だちはできてよく遊んだ。

カバンを持って歩くことができなかったので、そこだけ母にお願い。
朝は一緒に歩いて登校したが、帰りは別行動。母がカバンを持ってそそくさと帰る傍ら、私は友だちとゆっくり帰ったり。
たまには友だちにカバンを持って帰ってもらったりした。

しかし「からかわれること」もままあり、それが高じて辛くなり、学校から急に姿を消すという事件を起こした。騒ぎとなり、みんなが学校の周りを捜索。私は通学路とは別ルートで家に帰り、そこで発見された。
この一件は私の最大の汚点ですな。。みんなに迷惑をかけました。

今思うと私の対応の仕方もまずいところがあった。避けられたということ。かと言って「からかうこと」を決して肯定はしないけど。

先生や両親の説得で2日後には通学再開。ここが大きな分岐点だった。登校拒否になるかならないかの分かれ目。受け入れてくれたクラスメートにも感謝。

そして、無事に卒業。事件のこともほぼ忘れていた。性格が厚かましいのかもしれないな。

1976年4月、奈良県奈良市立T中学校へ入学
メガネをかけ始める。これから一生メガネか〜と軽くショック。
カバンは相変わらず母に頼っていた。行きも帰りも母は母、私は私で別行動。
あるとき上級生の女子数人から「通学路の途中なので朝は持って行きます」と言っていただき、お願いすることに。母には妹の送り迎えもあったので、本当にありがたいことだった。改めてお礼を言いたいな。「ナイトスクープ」に出そうかな。

軽いカバンなら持って歩けるようになったので、各教科書を1冊ずつ余分に買い(家用と学校据え置き用)、ノートも1冊にして軽量化を図り、真の意味での「一人での通学」が実現した。

腹から笑い合える友もでき、からかわれることもなくなり、大失恋もし、いい学校生活だった。

1979年4月、奈良学園高校へ入学
行きたかった公立高校には学力面で及ばず。内申点が足らずに受験すらしなかった。

しかし開校したてのこの高校に行ったのが大正解!1学年57人、2クラスの男子校(数字は当時のもの。現在は共学)で、各人の個性が浮き彫りにされてぶつかり合い、オープンな教師陣とも相まって、非常におもしろかった。いまだに付き合いが多いのもコヤツたち。

思えば私が障害をネタにし出したのもこの頃、エロキャラのレッテルを貼られたのもこの頃。みんなコイツらの影響だ!

隣の市にあるので通学は行きも帰りも母の運転する自動車で。2年生ぐらいからは帰りだけはバスと電車を乗り継いで最寄り駅まで一人で帰るようになった。もちろんカバンを持って。たまに寄り道もしながら。

現役で関西大学を受験し合格するも希望学科ではないという理由で入学辞退。
全く見込みのなかった京都大学も受験し、当然玉砕。浪人生活へ。

一浪時は京都市の近畿予備校に通学。行き帰りとも電車を乗り継ぎ自分でカバンを持って。いかにして電車で楽に通うか、工夫を始めたのもこの頃。

1年経っても高望み志向は変わらず、とうとうどこも受験せずに二浪目に突入。
それでも学力は結局伸びず、翌年は京都産業大学、神戸大学を受験。神戸は不合格。

この2年間、今から思うと甘甘だった。

1984年4月、京都産業大学へ入学
理学部計算機科学科(現在のコンピュータ科学科)でコンピュータの主にソフト関連のことを学んだ。私のやりたかったこと。
自宅のパソコンも使い、プログラミング言語を多数習得。これが就職時の自信につながった。

京産大は京都市中心部よりまだ北にあり、電車とバスを乗り継いで片道2時間。週6日通った。秋には運転免許取得。自宅〜大学は長距離になるので京都駅前に駐車場を借りて、電車と車のリレーで通学した。

仲のいい友人たちもでき、サークルにも入り、下宿に泊まったり京都市内をドライブしたり。自分自身も短期間だが下宿した。でも、もっと京都をウロウロすべきだったと今になって思う。そしてもっと女の子に積極的になるべきだった。アホみたいにウブだった。

学年が上がるにつれ単位が楽になり、4回生では週2日通学に。自宅〜大学の自動車通学に切り換え。これを目指して3年間やってきたようなものだった。


プロフィール(社会人編)に続く


ご感想をお寄せいただければ、ここまで書いた甲斐があったというものです。
こちらまでぜひ! → okiraku_shuアットnifty.ne.jp (「アット」を半角の「@」に変えてお送りください)

Copyright © Shu Yoshida All Rights Reserved.